無。

なにもありません。

ハードボイルドとは

 最近訳もなくハードボイルド小説を読む機会が多かった。意識したわけでもなく、本当にそのとき読みたいものを読んでいっただけだ。ハメット、チャンドラー、マクドナルド、ブロック、エルロイ……はちょっと違うか。

 これらをちょこちょこ読んでいっただけでは残念だけどハードボイルドというジャンルを理解することは難しい。一匹狼、トレンチコート、ロックグラス、おしゃれな会話、といった記号的なイメージはたぶん後年の映画かなにかで培われていったもので、そういう外見的な要素だけではハードボイルドを理解しきれはしない。私立探偵を主人公に据えたミステリー、犯罪小説だという紹介もちょっと乱暴が過ぎる。  

 

 感傷に浸ることなんか絶対になく、どんな暴力もはねのける、精神的、肉体的にタフで危機的状況でも軽口を利けるような人間を主役に描く犯罪小説。これも何か違う。多くの人がそれで納得してそうなんだけど、違う気がしてならない。日本でだけなのか海外でもありがちなのか知らないけど、こういうハードボイルド“調”の小説、映画やアニメがけっこうあってどうも好きじゃない。

 そういった創作物の中でのタフガイはだいたい一見非情で、よくわからない正義感がぽんと出てきて、自分の機転と暴力に絶対の自身があるからいつでも、誰にでも皮肉っぽい口が利けるんだろうと思うけどハードボイルドとはそんな感じなの? まるでマカロニ・ウエスタンじゃないか。マカロニは大好きだけどあれをハードボイルドと呼ぼうとは思わない。思うに、混同されることが多いのではないだろうか。

 そういうタフな人たちの何に違和感があるかって彼らがタフであることのバックボーンが見えないからだ。まあ十中八九自身の腕っぷしというか武力に信頼を置いていて、ちょっとメタ的だけど主人公すら最後には切り抜けられることをわかっているからあんな余裕こいてるんだろう。どれほど安っぽくて尺の短いマカロニにも主人公の信念やバックボーンが示される。それはもちろん全て善なるものではなくて、たとえば他人は絶対に信用できないから必ず金に走るとか、そういう行動原理が多かれ少なかれ示されている。

 なら加えて、主人公に信念があればハードボイルドかと言われるとこれはだいぶ近いような気がする。ただ信念とはいっても、例えば金が絶対だから金さえもらえれば平気で汚職に手を貸す刑事とか顔色一つ変えずに人を殺す探偵が主人公となると途端に暗黒小説っぽさが増す。これはこれでいいけど、ちょっとジャンルが違ってきそう。この信念にもおそらく傾向があって、ハードボイルドの場合は大抵善とか正義に寄ったものだ。だからといって何事においても模範的になり、あらゆる行動の根底に合法であることって信念があるキャラクターもつまらない。全てが全て合法ではないし、ときには読者が目を疑うような行動に出ることもあるけれど、その行動の根底にはわりと普遍的な、多くの人が頷く正義観や道徳観、それと良心があるのだ。これだ。この辺りが自分にとって一番しっくりくる。

 彼らには確固たる道徳や良心があって、それは彼らなりの、という言葉が着くほど安いものじゃない。きっと読者が見れば必ず頷くものだ。そしてそれは、社会における暗黙の了解とか、法律とも時折対立する。普段自分たちが生活していても感じるものではないか。間違っているとは思うけど、忖度してモヤモヤして……なんて。

 ハードボイルドな主人公たちはそういった正義観に対してぼくたちが想像できないほどの自信を持っている。それはときに読者には横柄だったり慇懃無礼に見えたりすることがあるけど、彼らにとってみれば自分の立場を優先して妥協してしまう精神こそ憐れむ対象だ。

 腕っぷしや軽口が根拠なのではなく、彼らは自分の正義が普遍的であることも、ときに社会と対立してしまうことも完全に理解しているからこそ、感情に左右されずに自分の態度を貫けるのだ。だからこそ感情によってブレたりもせず、警察に横槍を入れられようと、ギャングの手先に銃口を押し当てられようと屈しない、ハードな人間ができあがる。これこそハードボイルドなのではないか。

 全部勝手な考えだ。解釈なんて個々人ばらばらにあるはずだ。もうハードボイルドなんてジャンルはほとんどはやらない。でもこうしてたまたま読む人間がいるのだから現代でももう一度深く振り返られたい、という願いを一つ。