無。

なにもありません。

ハードボイルドとは

 最近訳もなくハードボイルド小説を読む機会が多かった。意識したわけでもなく、本当にそのとき読みたいものを読んでいっただけだ。ハメット、チャンドラー、マクドナルド、ブロック、エルロイ……はちょっと違うか。

 これらをちょこちょこ読んでいっただけでは残念だけどハードボイルドというジャンルを理解することは難しい。一匹狼、トレンチコート、ロックグラス、おしゃれな会話、といった記号的なイメージはたぶん後年の映画かなにかで培われていったもので、そういう外見的な要素だけではハードボイルドを理解しきれはしない。私立探偵を主人公に据えたミステリー、犯罪小説だという紹介もちょっと乱暴が過ぎる。  

 

 感傷に浸ることなんか絶対になく、どんな暴力もはねのける、精神的、肉体的にタフで危機的状況でも軽口を利けるような人間を主役に描く犯罪小説。これも何か違う。多くの人がそれで納得してそうなんだけど、違う気がしてならない。日本でだけなのか海外でもありがちなのか知らないけど、こういうハードボイルド“調”の小説、映画やアニメがけっこうあってどうも好きじゃない。

 そういった創作物の中でのタフガイはだいたい一見非情で、よくわからない正義感がぽんと出てきて、自分の機転と暴力に絶対の自身があるからいつでも、誰にでも皮肉っぽい口が利けるんだろうと思うけどハードボイルドとはそんな感じなの? まるでマカロニ・ウエスタンじゃないか。マカロニは大好きだけどあれをハードボイルドと呼ぼうとは思わない。思うに、混同されることが多いのではないだろうか。

 そういうタフな人たちの何に違和感があるかって彼らがタフであることのバックボーンが見えないからだ。まあ十中八九自身の腕っぷしというか武力に信頼を置いていて、ちょっとメタ的だけど主人公すら最後には切り抜けられることをわかっているからあんな余裕こいてるんだろう。どれほど安っぽくて尺の短いマカロニにも主人公の信念やバックボーンが示される。それはもちろん全て善なるものではなくて、たとえば他人は絶対に信用できないから必ず金に走るとか、そういう行動原理が多かれ少なかれ示されている。

 なら加えて、主人公に信念があればハードボイルドかと言われるとこれはだいぶ近いような気がする。ただ信念とはいっても、例えば金が絶対だから金さえもらえれば平気で汚職に手を貸す刑事とか顔色一つ変えずに人を殺す探偵が主人公となると途端に暗黒小説っぽさが増す。これはこれでいいけど、ちょっとジャンルが違ってきそう。この信念にもおそらく傾向があって、ハードボイルドの場合は大抵善とか正義に寄ったものだ。だからといって何事においても模範的になり、あらゆる行動の根底に合法であることって信念があるキャラクターもつまらない。全てが全て合法ではないし、ときには読者が目を疑うような行動に出ることもあるけれど、その行動の根底にはわりと普遍的な、多くの人が頷く正義観や道徳観、それと良心があるのだ。これだ。この辺りが自分にとって一番しっくりくる。

 彼らには確固たる道徳や良心があって、それは彼らなりの、という言葉が着くほど安いものじゃない。きっと読者が見れば必ず頷くものだ。そしてそれは、社会における暗黙の了解とか、法律とも時折対立する。普段自分たちが生活していても感じるものではないか。間違っているとは思うけど、忖度してモヤモヤして……なんて。

 ハードボイルドな主人公たちはそういった正義観に対してぼくたちが想像できないほどの自信を持っている。それはときに読者には横柄だったり慇懃無礼に見えたりすることがあるけど、彼らにとってみれば自分の立場を優先して妥協してしまう精神こそ憐れむ対象だ。

 腕っぷしや軽口が根拠なのではなく、彼らは自分の正義が普遍的であることも、ときに社会と対立してしまうことも完全に理解しているからこそ、感情に左右されずに自分の態度を貫けるのだ。だからこそ感情によってブレたりもせず、警察に横槍を入れられようと、ギャングの手先に銃口を押し当てられようと屈しない、ハードな人間ができあがる。これこそハードボイルドなのではないか。

 全部勝手な考えだ。解釈なんて個々人ばらばらにあるはずだ。もうハードボイルドなんてジャンルはほとんどはやらない。でもこうしてたまたま読む人間がいるのだから現代でももう一度深く振り返られたい、という願いを一つ。

不完全な

 恋愛しないのがかっこいいと思っていた。頑張ったって無理だろってツッコミはさておいて。そういう考えを持ってしまうに至った原因はいくつか思い当たる。

 

 昔も今もメンヘラをこじらせている。周りにも当然メンヘラはいた。でも彼ら彼女らには当たり前のように恋人がいたり配偶者がいたりした。「そんな恵まれた状況でメンヘラだなんて甘えんな。年齢イコールの僕はそんなやつらなんかよりもっと冷たい孤独にあるんだぞ〜」なんて勝手に憤って、他のメンヘラに面と向かえばマウント取っていた。孤独にも耐えて、そのことについて泣き言を言わず唇を結んでおくことがハードボイルド的でかっこいいと思っていたのだ。痛たたたっ……。これを大学生のときにやっていたんだから痛いなんてもんじゃない。そして今でもそういう思想は自分の中に残っている。

 思い返せばそういう泣き言を言っていたわけだし、完全に孤独かと言えばそうとも言いづらい。未だに付き合いが続く気の合うやつらともこの頃から面白おかしくやっていた。楽しかったなぁ。

 

 もう一つ大きな原因があるとすれば童貞を捨てたときだと思う。SNSで知り合った人が相手だった。バツが一つついた人で、六つ年上だった。なんとなく影がある人。その日に初めて実際に会って、一緒に映画観て少しお酒飲んでホテル行っただけなのにしばらく忘れられなかった。たった一日の関わりだったのに。しばらくその人のことを思い出すと動揺して、思考がまとまらなくなった。お熱だったんだと思う。忘れるために接点を無くした。その時思った。「たった一人の人間相手になんでここまで動揺しなきゃならない? なんで彼女のことばかり考えなきゃいけない?」

 すごく惨めな気分だった。もう二度とこんな思いしたくないと思った。一人の人間のことで気を揉むことが情けなかった。この時の感情が大きかったんじゃないかと思ってる。

 

 それから年月が流れて、大学出て働きだしたりした。時々、飲みにいった先で上手く会話が進んだ相手と一晩一緒に過ごすこともあったりしたけど、最初みたいな動揺が来ることはなかった。もしかしたら、ってタイミングもあったけど接点をなくして休日は趣味に取り組んでれば忘れられた。今も僕自身何も変わらずコミュ障の、成長のないやつだ。だけどそういう惨めな感情は二度と持たずに済むと勝手に確信していた。克服だと思っていた。

 

 最近、そのもしかしたら、ってことがまたあった。最初は気の迷いや錯覚だと思っていた。酒でごまかし、身体を動かしてればその内消える感情だと思っていた。一ヶ月経っても消えず、二ヶ月や三ヶ月経ってもまだ消えない。あの時と同じだと気付くと愕然とした。やっぱり情けない。

 どうしたらいいかまだ分からない。時間が解決してくれるのを待っている。つくづく感じる。とんだ欠陥じゃないかって。

「プライド」で感じたもの

 金子達仁の「プライド」を読んだ。

 1997年に行われたプロレスラー高田延彦柔術ヒクソン・グレイシーの試合とその実現のために関わった人たちについて書いたノンフィクションだ。

 

 1994年に生まれたぼくは当時何がはやっていたかなんて覚えているわけがない。ただ話を聞くとちょっと今では考えられないくらい格闘技というものが熱を持って観られていた頃らしい。

 これより何年か前には第一回UFCが開催された。今みたいにルールがよく整備され、多彩な技術を持つ洗練されたファイターたちが戦う場ではなく、禁じ手は最小限で参加者たちは自身が習得してきた格闘技こそが最強だと思って来たのだろう。まだ総合格闘技なんて概念が確立される前の話。

 そこで諸派の格闘家を破り優勝したのはひょろっとした道着姿の、全然無名だったブラジル人ホイス・グレイシーだった。彼は地味であまり馴染みなかっただろう寝技中心の技術で次々に自分より大柄な相手を倒してきた。これがブラジリアン柔術の名が世界に響いた瞬間ではなかっただろうか。そのホイスはその後「兄のヒクソンは私より十倍強い」と言った。当然みんな思っただろう。いや誰よその人って。ただ並み居る格闘家を倒して第一回UFCチャンピオンになったホイスより十倍強いってまだ姿を見てないけど相当やばいやつなんだろうなと視聴者は感じたに違いない。素敵なお膳立てではないか。当時を生きたわけではないけど、それを聞けばなんとなく熱いものが込み上げてきてどきどきする。

 

 対してプロレスラーの高田延彦は当時すっかり荒んでいたらしい。新日本プロレスから始まった彼のプロレスのキャリアはその後離反、と新団体加入を繰り返しUWFインターナショナル設立に至る。そこまで様々なトラブルや政治的闘争を経験してきた高田の疲弊した精神は冒頭で、痛々しいまでに書かれていた。極めつけは苦しい経営の中で行った新日本プロレス武藤敬司との試合。ブックの存在が作中示唆されている。

 強いものに憧れてプロレスラーを志したのに、結局は会社のために敗北の筋書きを受け入れた。正しく挫折だろう。

 

 この二人の試合の実現、PRIDE.1に至るまでの経過を軸に、そこに関わった人たちへの取材も多く盛り込まれている。もちろん当事者ヒクソン・グレイシーへのインタビューも。

 個人的な印象だけれども、ヒクソン・グレイシーという人物からはどこか神々しさというか超然としたものを本書を読む限り感じた。まるで人ならざるものみたいな。きっと少なからずそういう雰囲気のある人なのだろう。人間高田延彦はもしかしたら人の及ばぬ何かに挑んでしまったのかもしれないとすら思わせる。それとも強さを求めるあまりに、強いものであろうとするために冒頭ではヒクソンとの試合を熱望したのだろうか。それはもしかしたら憧れであったのかもしれない。そのボルテージは下がり続けたまま試合になだれ込むのだけれども……

 

 勝手な想像だけれどもまだMMAという言葉が浸透していなかった時代に近い文脈で使われた言葉があったとしたら、それはプロレスではないかと思う。まだその境界線が曖昧な時代だったと聞く。

 今は格闘技もグローバル化の時代。東洋の武術、武道も西洋の格闘技も混ざり合い総合格闘技という新たな競技が確立されつつある。異種格闘技戦の時代は過ぎたのだ。けれども当時はそれらが接触し始めた頃で、どんな結果が出るのか誰にも予測できなかったのだろう。たとえ実際に戦った当事者たちには見えていたとしても。

 格闘家もプロレスラーも等しく、テレビという当時の一大マスメディアを通して、自身の誇りを、命を賭けて戦う姿と共に人々に夢をあたえていた時代がたしかにあったのだと思うと羨ましくてならない。

安物でも好き

 B級に分類される映画が好きだ。「エル・マリアッチ」とか「ロボコップ」といった手合いのだ。学生の頃は一瞬だけ西部劇にはまったがすぐマカロニ・ウエスタンに傾いていった。

 正直、どれもストーリーなんて似通っている。(原因が自身にあれ他者にあれ)とんでもない失敗によって多くを失った主人公があるできごとをきっかけにもう一度立ち上がり、這い上がるなり復讐を遂げたりする話ばかり。こういったストーリーのためだけにデフォルメされた近未来アメリカや西部開拓時代を舞台に描かれるのだ。よくも飽きずに観ていたと自分のことながら思う。展開が読めるから安心して観れると感じたこともないし、この手のストーリーが本当に好きだ。あらすじを読んでこんな感じの映画なら迷わず観に行くし、小説も手に取る。単純だ。

 

 アメリカの正統西部劇はまだいい方で、南ヨーロッパで多く作られたマカロニ・ウエスタンなんかは大体主人公からして悪党だ。一度は必ず自滅する。傍から見れば自業自得だろ、という感じだがなぜか主人公はしかめ面で「惨めだよな、おれ」って態度だから観てる側としてはつい主人公に同情しちゃう。最後には主人公がキレキレのガンプレイでもっと強烈な悪党を倒せばなんとなくカタルシスを感じて「まあまあおもしろかったね〜」なんて感想が漏れ出てしまうのだ。突っ込みどころとかたくさんある。

 

 たぶんその泥臭くさがいいんだと思う。ボロボロになるまで痛みつけられて、いよいよおしまいかという時に「いや、最後くらいは振り切ってやりたい放題、自分らしく」なんてスタンスに高度経済成長期のサラリーマンたちは自分と重ね合わせて見てたから日本でマカロニ・ウエスタンが流行した、なんて考察を昔どこかで読んだことがある。何となく現代にも通じてる感性じゃないか。

 もしかしたら、敗戦というショックを経験して一度はめちゃくちゃになった日本(もちろんイタリアも)がついに持ち直した姿と、落ちぶれて、散々ひどい目に遭っても最後には渾身の一発で敵を倒してまた立ち上がろうとするスクリーンのガンマンたちが重なって見えたのかもしれない。

 

 こういう映画では復讐が物語の主題になっていることが多い。

 家族や恋人、親友を殺されたり傷つけられたから、無実の罪を着せられて何年も投獄されて全てを失ったから……

 そんな理由で彼らは銃を取る。そして散々打ちのめされながら復讐を遂げるのだ。たったそれだけのこと。単純すぎる。

 そんなストーリーの映画が大好きだって上でも書いたけど、未だにそういう結末には「だから? それで?」という感想も持つ。

 

 復讐を遂げたからといって何だって言うのか。仇を殺してもそいつに殺された家族やパートナーは帰ってこないし、失った時間が戻るわけでもない。敵を倒したという事実だけが唯一の慰めとして残るだけだ。これはあんまりにもむなしくないか。大事なものを奪われ、痛い目を見て掴んだのは復讐を遂げたということだけ。痛々しすぎる。

 

 「007 消されたライセンス」を初めて観たとき、こういう鑑賞後感を初めて覚えた。

 冒頭、007はCIAエージェントの親友フェリックス・ライターからの要請に応えて麻薬王サンチェス逮捕のために協力する。フェリックスの主導でサンチェスは見事逮捕されるが報復を受けて彼は自身の片脚と婚約者を失い、サンチェスは脱走してしまう。それを目の当たりにした007が個人的な復讐心のためにサンチェスを追うのが映画の本筋だ。

 結末を言ってしまうと、007はこの麻薬王を倒して復讐を成し遂げる。ラストではフェリックスを見舞って「回復したら一緒に釣りにでも……」なんて言葉を交わしている。そこでちょっとしんみりしたエンディングテーマが流れてしまうと「おもしろかったね〜」なんて感想が浮かび上がってくるのだけれど、待ってほしい。

 

 確かに007は親友のために敵を取った。それがなんなのか。それで彼の婚約者が戻ってくるわけでもないし彼の傷が癒えるわけでもない。そりゃあフェリックスも復讐を望んでいたかもしれないが、究極的には007の自己満足で成されたことだ。

 たぶんこういう解釈が、鑑賞後、読後のむなしさを生む。大きなものを失った代償が復讐を遂げたという事実一つ。

 それじゃあ感傷的になるには物足りないじやないかとも思うのに、そのむなしさにも満足してしまう。

 

 たぶん、それが彼らに用意された救済だからだ。復讐を遂げたというその事実だけに意味があるのではなく、それをきっかけに彼らがまた立ち直れることを示唆して終わるのだ。

 大事な人や時間を失った。前のように幸せな時間はもう過ごせないかもしれない。でも彼らは生きている。またいくらか持ち直せるかもしれない。だったらまだいいじゃないか……

 復讐への過程で彼らは多くの出来事を経て、様々な人物とも出会う。そういった出来事の最後に復讐という事実が加わる。

 

「続 荒野の用心棒」のラスト、ジャンゴは妻を殺した古敵のジャクソンを倒し、妻の墓の十字架に愛用のシングルアクション・アーミーを置いてヒロインの待つ酒場へと戻ろうとする。このヒロインは最後の決戦の前に撃たれていて、ぶっちゃけ生きているのか死んでいるのかも明確に描かれていない。それでも戻ろうとするのはこのヒロインがジャンゴにとって迎えに行くに足るほど大事な人になったからだ。彼が人間らしさを取り戻し、立ち直る予兆だ。

 

 救いとはこういうことだと思う。

 未だ泥沼の中でもがきながら、やっと掴んだ一つの手がかり。それで泥沼から脱出できるかどうかはまだわからないけど、わずかな光が見える。

 そういうまだ些細な光に魅力を感じるから、B級映画、小説と言われようがああいった話が好きなのだ。

オタクがきらい

 しばらく放置していたらはてブからメールが来た。なんとなく関心してしまった。

 勢いで始めてはみたけど、ブログって難しい。映画や読んだ本のことならツイッターに書き込めば充分だし、あちらの方が感想を共有したり考察の意見を出し合ったりできて楽しい。

 それにそもそも長文で発信したいことが自分の中にはない。

 そういうものを見つけようと思ったのもブログの一つのきっかけだったのに、これに気づいてしまったのは悲しい。昔はあんなにオタクだったのに。

 

 最近はオタクを好きになることも難しくなった。

 自身がオタクだったから、単に同族嫌悪の延長で気に入らないと思っているだけかもしれない。けれども他に思い当たることもある。

 

 昔オタクだったぼくからオタク趣味を取ったらただのキモい陰キャになってしまった。本当に、なにもおもしろいところのない人間だけが残った。 

 社会人になればオタクでいるのは難しい。アニメを観るのも面倒になったし、ソシャゲをやるのもしんどくなり、同人誌即売会のあとの飲み会(いわゆるオフ会)に行く気力もなくなった。だから働いていてなお、そういった趣味を続けていられる人たちがましいのかもしれない。要するに言えば、ただの嫉妬だ。キモいインキャの嫉妬。

 最近のメディアでの傾向を見ていると、オタクというのは何か一つのことに熱中していたり極端な趣味のある人たちではなく、何か変な趣味のありそうなキモい男であるという文脈の中で使うのが主流のように感じる。その定義に当てはめれば、ぼくこそが気持ち悪いオタクであり、ぼくが散々つばを吐いてきた(と勝手に思っている)人たちは単にアニメやゲームに熱中している人に過ぎない。広義のリア充だ。陽キャだ。負けたのはおれだ。

 

 昔好きだったことが今では心動かないというのは、仕方のないことだと思う。時間と共に変わってしまったのはコンテンツの質でなく、本人の感性だから気に入らなくなったら叩くということもしない。それでもまだモヤモヤするのはたぶんコンテンツそのものでなくそれを愛好していた人たちに思うところがあったからか。

 

 ぼくが出入りしてたコミュニティに特有だったのかどこもそんなものなのかわからないけど、アニメやゲーム好きなオタクには倒錯した人が多かった。

 グロテスクな絵面や極端に暗く湿ったシチュエーションが大好きだったりやたらハードな性癖を持っていたり、そんなものが好きな自分が好きな人がいたり……

 これが中高生の話だったらそんな時期がある人もいるね、と笑えるけどそろそろ三十路が見えてきたお兄さんたちが居酒屋で大笑いしながら話しているとなかなか苦しい。上手く言葉にはできないけれど、なんだかなぁという気分になる。まあ飲んだくれてしゃべることなんて仕事の話かエッチな話かみたいなところあるし、そんなもんだよな。

 

 なんとなくだけどそういうオタクからは「こんな嗜好にたどり着いたおれすごいだろ? 啓蒙してやるからもっとおれを持ち上げろ! オタクの真髄見せたる!」みたいな選民思想めいたものが見え隠れしている。特に同人誌を頒布している人に多い。これは偏見か。

 でもそんな家族や職場では大っぴらにできない性癖振り回しておいて持ち上げろとは。それに関しては「自分はちゃんと現実と創作の区別がついてるからいい。二次元であるなら何でも許される」という乱暴な意見も見え隠れする。そして実際に経験したことを話すといやな顔をされる。二次元なら何でも上手くいくように描けるから、彼らにはそっちが至高なのだろうか。風俗体験なんて話そうものなら自分らのことは棚にあげて「変態! DQN! 犯罪者!」みたいに扱われる。清純か。現実は悪で、創作は善なのか。それは悲しい。  

 たぶんこういう漠然としたモヤモヤが溜まっていって少しずつ離れていった気がしないでもない。嗜好なんて人それぞれだとは行っても、目を背けたくなるような性癖を二次元だから、創作だから、の一言で抑えて他人にも好きになれと叫ぶのはちょっとキツい。そして自分のことを棚にあげてそんなオタクは害悪だってツイッターでぶつくさ言うオタクもキツい。

 

 けど一番最キツいのは大した趣味もなく用事がなければ引きこもってるオタクでもない気持ち悪い生き物がこんなことグチグチやっていることだ。

 こうやって書いたこともぼくの主観に依るところがだいぶ大きい。必ずしも正しい見方をしているだなんて思っていない。嫉妬補正みたいなものもっている。自分にもうんざりだ。

 

 あの頃が懐かしい。最近のアニメなんていくつタイトルを見ても何一つわからないし、キャストを見ても知っている声優の名前が一つもない。ずいぶん遠ざかった。

 リアタイで深夜アニメを観ていれば眠気は感じなかった。ソシャゲのストーリーについての考察を交わせばいつまでも話していられた。もうすっかり昔の話。悲しい。

 

 当時に戻りたくて仕方ない。でも時間が巻き戻せないことをよく知っているからこうして不特定のオタクに八つ当たりしちゃうのかもしれない。なにもかもむなしい。ありがとう。

感動がきっと来る

 新作がそろそろ公開になると聞いて最近映画「リング」を再鑑賞したのだけど、そこまでおもしろくなくてびっくりした。

 あの映画を初めて観たのはたしか中学生の頃だかだったと思う。午後ローで放映してたのを、というのはぼんやり覚えている。やっぱり最後のテレビから貞子が這い出してくるシーンはインパクトがあったけど、残念ながらそれ以外のことはほとんど覚えていなかった。唯一覚えていたのは松嶋菜々子は今も昔もかわいいということだけ。

 それくらい曖昧な印象だから新鮮な気持ちで観れるだろうと期待してたけど、これがあんまりおもしろくない。(演技はもう一つだけど)松嶋菜々子がかわいいだけ。何も印象が変わらない。井戸の中から髪の長い白装束の女が這い出てくる、というシチュエーションもすっかりパロディのネタとして定着してしまっているせいでラストの真田広之が死ぬシーンも全然衝撃がない。

 たぶん開始10分くらいで井戸の中から貞子がうん十人とわらわら出てきて景気よく人をぶっ殺しまくったらパニック映画として少しは楽しめたと思う。こういう場合井戸からわらわら出てくるのはなんでもよくて、例えば「呪怨」の伽椰子とか「13日の金曜日」のジェイソンでいいし、少し攻める路線にしたければプレデターとかでもいい。人型であるとか人間大のサイズであることに執着がなければ別にゴジラとか出てきても全然問題ないのだ。なんてどうしようもないことを考え続けていなければ到底最後まで観れるものじゃなかった。

 

 あれぇこんなはずじゃなかったんだけど、なんて鑑賞後にもやもやしたまま、無意識の内に「リング」電子書籍版を買っていた。映画のノベライズでなく、正真正銘、映画公開の七年前に書かれた原作小説だ。読んでみるとこれがむちゃくちゃおもしろい。基本的な大筋は映画とあまり変わらないけど、原作はミステリー小説の向きがだいぶある。作者の鈴木光司は当初この作品で横溝正史賞を狙ったのも頷ける。登場人物たちはどこまでも人間らしく論理的に、筋道を立ててビデオの呪いやその成り立ちを追求し、きちんとその答えに突き当たる。けど答えを見つけたからってそれが何なの? と言わんばかりに理不尽とすら感じる呪いの力は作用して最後に高山(映画だと真田広之が演じてた人)は死ぬ。そこでやっと人外の存在をはっきり認識できるからこわいのだ。もっと言うと原作に貞子がテレビ画面の井戸から出てくるシーンはない。それでもこわい、と読み手に感じさせるのだからやっぱり作家はすごいなと。

 ちなみに原作小説は続編の「らせん」「ループ」と三部作を成していて「リング」から読んでいくとむちゃくちゃおもしろい。ただし「らせん」後半辺りからホラー色はほぼなくなって以降は完全にSF(スペキュレイティヴ・フィクション)小説になっている。「ループ」に至ってはホラー要素は完全に取り除かれた純粋なSF小説

 個人的に一番おもしろかったのは二作目の「らせん」

 貞子の呪いの正体が科学的な見地から明らかにされていく過程とサスペンスとしてのスピード感が上手くマッチしていて娯楽小説としても楽しめる。ラストは一見悲観的だけど「ループ」まで合わせて読めばむっちゃ感動する。もうそこにあるのはただ家族や恋人に生きていてほしいがために命を懸けるかっこいい人たちの姿だけ。「らせん」の主人公安藤は自分のせいで死なせてしまった一人息子と再会し今度こそ家族が離れないように、といううっすらした望みのために貞子に屈するし、そんな彼に救済を用意した高山も実は大切な人たちのためにもがいていたんだという全体像が明らかになる「ループ」のラストシーンは涙を誘うわけなんですよ。もう呪いのビデオの話してる場合じゃない。本当におすすめ。

 

 たしかに映画「リング」は古井戸から貞子が出てくるシーン含め公開当時としては画期的でショッキングなホラーだったのだと思う。散々悪口を書いたし、すっかり陳腐になってしまったとは言うものの、新作映画が公開されるとなれば興味は湧くし、なんなら観に行こうという意思が今はある。映画シリーズは原作とは別に発展してきたし、それならではの魅力的がある。しかし原作もまた別の展開があったのです。新作公開を機会に小説にも目を向けてくれる人が増えるといいな、と思う。

俺はうさぎ

 俺はうさぎ(のようでありたい)

 

 うさぎ、小さくて柔らかくてとてもかわいい。猫や犬に比べると少数派だけどペットとして飼う人もそれなりにいる。食糞とか人間の想像を絶する行動をするそうだけど、理に適っているようなので目をつぶれる。

 人間の視点で見ればとても良い愛玩動物だろうけど、残念ながら自然界では弱肉強食の弱肉。中〜近世ヨーロッパではスポーツ・ハンティングの獲物としてバンバン狩られていたのも有名。とても弱い。弱点が多くて、外的要因以外でも簡単に死んじゃう。儚すぎて悲しい。あんなにかわいいのに。かわいいから儚いのか。

 

 そんなに弱いのになんでうさぎ気取りたがるのかって言うと色々訳はある。 

 

 うさぎは早い。種類によっては最高で時速70kmで走れるそうだ。火事場のバカ力的最高速度なのかもしれないけど、だとしても早い。たぶん犬より早い。生き残るために必要な逃げ足なんだろう。だけどその逃げ足のおかげでうさぎはしばしばハイスピードの象徴として扱われる。

 僕は遅い。(人間誰しも、大なり小なりそういうところはあると思うけど、)仕事にしろ人間関係にしろ面倒事を一度認めてしまうと腰が重くなる。面倒な事柄は放っておけばおくほどより面倒になることがわかっているはずなのに、しばしば初動が遅い。天敵の存在を認めれば機を失せずに走り出し、圧倒的な速度を以て突破するうさぎにあやかりたい。

 

 うさぎは弱肉強食の弱肉だと今しがた書いた。だからこそ彼らはたくさん子どもをつくれる。そういう種が生き残ってきたのか、そうなるように変わっていったのかはわかないけど、とりあえずうさぎはむっちゃ子作りする。ここまで頑張ってまじめな文体で書いてきたけど、結局はこれだ。

 うさぎは常に発情期、というのは必ずしも正確ではないようだけどむちゃくちゃ頑張っちゃうらしい。オスは一度発情期になれば見境なく、にわとりや猫にも入れようとする。見境ないどころの話じゃない。もう入るなら何でもあり。これは凄いことだと思う。

 童貞の僕からすれば、羨ましい。今まで何度も半ばで折れてきた。とても悔しいことだし、自身に対して疑心暗鬼になってしまう。もしかしたらこの出来事が自尊心を下げる要因になるかもしれない。人間と野生動物を同列にして比較するべきではないけれど。

 

 何度も言うけどうさぎは狩られる側だ。天敵も多いし神経質なせいで食われなくても簡単に、勝手に死んじゃう。それでも自己保存の本能に従ってたくさん子孫を残そうとする。生き残れる確率が低いからたくさん子どもを残そうとするうさぎの多産に本能以外の何を(強引に、)見出すかは受け取る人間の勝手だ。でも僕はそこに何としても自分の爪跡を残そうとする泥臭さやしぶとさを感じずにいられない。

 

 僕が「俺はうさぎ」なんてごくたまに口走ったりするのは、結局うさぎの生き様にそういうものを勝手に見出し、勝手に憧れたりするからだ。