無。

なにもありません。

安物でも好き

 B級に分類される映画が好きだ。「エル・マリアッチ」とか「ロボコップ」といった手合いのだ。学生の頃は一瞬だけ西部劇にはまったがすぐマカロニ・ウエスタンに傾いていった。

 正直、どれもストーリーなんて似通っている。(原因が自身にあれ他者にあれ)とんでもない失敗によって多くを失った主人公があるできごとをきっかけにもう一度立ち上がり、這い上がるなり復讐を遂げたりする話ばかり。こういったストーリーのためだけにデフォルメされた近未来アメリカや西部開拓時代を舞台に描かれるのだ。よくも飽きずに観ていたと自分のことながら思う。展開が読めるから安心して観れると感じたこともないし、この手のストーリーが本当に好きだ。あらすじを読んでこんな感じの映画なら迷わず観に行くし、小説も手に取る。単純だ。

 

 アメリカの正統西部劇はまだいい方で、南ヨーロッパで多く作られたマカロニ・ウエスタンなんかは大体主人公からして悪党だ。一度は必ず自滅する。傍から見れば自業自得だろ、という感じだがなぜか主人公はしかめ面で「惨めだよな、おれ」って態度だから観てる側としてはつい主人公に同情しちゃう。最後には主人公がキレキレのガンプレイでもっと強烈な悪党を倒せばなんとなくカタルシスを感じて「まあまあおもしろかったね〜」なんて感想が漏れ出てしまうのだ。突っ込みどころとかたくさんある。

 

 たぶんその泥臭くさがいいんだと思う。ボロボロになるまで痛みつけられて、いよいよおしまいかという時に「いや、最後くらいは振り切ってやりたい放題、自分らしく」なんてスタンスに高度経済成長期のサラリーマンたちは自分と重ね合わせて見てたから日本でマカロニ・ウエスタンが流行した、なんて考察を昔どこかで読んだことがある。何となく現代にも通じてる感性じゃないか。

 もしかしたら、敗戦というショックを経験して一度はめちゃくちゃになった日本(もちろんイタリアも)がついに持ち直した姿と、落ちぶれて、散々ひどい目に遭っても最後には渾身の一発で敵を倒してまた立ち上がろうとするスクリーンのガンマンたちが重なって見えたのかもしれない。

 

 こういう映画では復讐が物語の主題になっていることが多い。

 家族や恋人、親友を殺されたり傷つけられたから、無実の罪を着せられて何年も投獄されて全てを失ったから……

 そんな理由で彼らは銃を取る。そして散々打ちのめされながら復讐を遂げるのだ。たったそれだけのこと。単純すぎる。

 そんなストーリーの映画が大好きだって上でも書いたけど、未だにそういう結末には「だから? それで?」という感想も持つ。

 

 復讐を遂げたからといって何だって言うのか。仇を殺してもそいつに殺された家族やパートナーは帰ってこないし、失った時間が戻るわけでもない。敵を倒したという事実だけが唯一の慰めとして残るだけだ。これはあんまりにもむなしくないか。大事なものを奪われ、痛い目を見て掴んだのは復讐を遂げたということだけ。痛々しすぎる。

 

 「007 消されたライセンス」を初めて観たとき、こういう鑑賞後感を初めて覚えた。

 冒頭、007はCIAエージェントの親友フェリックス・ライターからの要請に応えて麻薬王サンチェス逮捕のために協力する。フェリックスの主導でサンチェスは見事逮捕されるが報復を受けて彼は自身の片脚と婚約者を失い、サンチェスは脱走してしまう。それを目の当たりにした007が個人的な復讐心のためにサンチェスを追うのが映画の本筋だ。

 結末を言ってしまうと、007はこの麻薬王を倒して復讐を成し遂げる。ラストではフェリックスを見舞って「回復したら一緒に釣りにでも……」なんて言葉を交わしている。そこでちょっとしんみりしたエンディングテーマが流れてしまうと「おもしろかったね〜」なんて感想が浮かび上がってくるのだけれど、待ってほしい。

 

 確かに007は親友のために敵を取った。それがなんなのか。それで彼の婚約者が戻ってくるわけでもないし彼の傷が癒えるわけでもない。そりゃあフェリックスも復讐を望んでいたかもしれないが、究極的には007の自己満足で成されたことだ。

 たぶんこういう解釈が、鑑賞後、読後のむなしさを生む。大きなものを失った代償が復讐を遂げたという事実一つ。

 それじゃあ感傷的になるには物足りないじやないかとも思うのに、そのむなしさにも満足してしまう。

 

 たぶん、それが彼らに用意された救済だからだ。復讐を遂げたというその事実だけに意味があるのではなく、それをきっかけに彼らがまた立ち直れることを示唆して終わるのだ。

 大事な人や時間を失った。前のように幸せな時間はもう過ごせないかもしれない。でも彼らは生きている。またいくらか持ち直せるかもしれない。だったらまだいいじゃないか……

 復讐への過程で彼らは多くの出来事を経て、様々な人物とも出会う。そういった出来事の最後に復讐という事実が加わる。

 

「続 荒野の用心棒」のラスト、ジャンゴは妻を殺した古敵のジャクソンを倒し、妻の墓の十字架に愛用のシングルアクション・アーミーを置いてヒロインの待つ酒場へと戻ろうとする。このヒロインは最後の決戦の前に撃たれていて、ぶっちゃけ生きているのか死んでいるのかも明確に描かれていない。それでも戻ろうとするのはこのヒロインがジャンゴにとって迎えに行くに足るほど大事な人になったからだ。彼が人間らしさを取り戻し、立ち直る予兆だ。

 

 救いとはこういうことだと思う。

 未だ泥沼の中でもがきながら、やっと掴んだ一つの手がかり。それで泥沼から脱出できるかどうかはまだわからないけど、わずかな光が見える。

 そういうまだ些細な光に魅力を感じるから、B級映画、小説と言われようがああいった話が好きなのだ。